秀才の通夜へわれらの息白し 板坂壽一

以前、いるか句会に参加したときにいただいた、板坂壽一さんの句集『壽一の二百句』(中央俳句会創立二十周年記念叢書)。ずっと句集を読む暇がなくて、やっと目を通しました。丁寧に、いるか句会で堀本さんの選に入った句にひとつひとつ付箋をつけていただいてありました。壽一さんは俳句の大先輩。いるか句会の中で、いつも鋭い指摘と柔らかな発想で異彩を放っています。そんな壽一さんの膨大な作品の中から、堀本さんが二百句を抄出。なかでも気になった句は次の一句でした。

 

秀才の通夜へわれらの息白し 板坂壽一

 

この句を一見してすぐに、肩を並べて歩く三人の姿が浮かびました。実際には三人ではなかったかもしれません。これは単に、ボクのイメージです。この句のスゴイところはその後で、年を経た三人の姿だけでなく、学生服をきた若かりしころの三人の姿さえ、浮かんでくるところだと思います。ひとつひとつの言葉に、無駄がないですよね。「秀才」と書くことで同郷の同級生だろうということがわかりますし、次に「われらの」と言うことで気の置けない仲間であることがわかります。その仲間のひとりを失った悲しみはもとより、再会した三人のむかしを懐かしむ会話や表情まで浮かんでくるようです。

学生服の三人が思い浮かぶのは、「われら」がひらがなだからかもしれません。それが若かりし昔を思い起こさせるトリガーになっているのかな、と思いますね。「我等」じゃないところの意味がここにあるような気がします。

これは実景なのでしょうか。きっと、実景を詠まれたのだと思うのですが、この「息白し」もすごくいいと思います。この句の季節は冬でないといけないと思います。冬だったことでより一層重厚感が増していると思います。雪や寒さからアプローチするのではなくて、冷たい空気を、吐く息の白さで表現したこの季語が、ぴったり決まっていると思います。

ボクには幸いにして、こういう場面に居合わせたことはありません。でも、いつかは訪れるこういう時、こういう場所で、こんな風に表現できたらいいなぁと思います。そんな、

 

ほかには、 「侠気尽し職去る人や竹の秋」、「紅梅や駆け寄りざまの深呼吸」、「啓蟄の舗道のひびを見つめけり」、「万緑にたちまち染まる眼鏡かな」なども好きです。「啓蟄の・・・」はいるか句会で参加したときも採ってますヨ。