あぢさゐはすべて残像ではないか 山口優夢

いや…暑い…一泊旅行から帰ってきた疲れもあって、暑さもあいまって、家に籠もっていた昨日今日でした。

と、まったく関係ないところから始めちゃいましたが、山口優夢さんの句集『残像』(角川学芸出版)。版元在庫切れで、古本も見当たらず、手に入れる方法を探したものの見つからず、やむなく図書館の相互貸借サービスを使って、国会図書館からの取り寄せとなりました。おまけに貸し出し不可、館内閲覧のみ…ということで、時間の余裕のあるときに、気になる句を抜き出してきました。でもやっぱり一番はこれ、ということで、掲句です。※スピカのお店で買えるみたいです(2015.05.06現在)

 

あぢさゐはすべて残像ではないか 山口優夢

 

この句、末尾に記号を足すことで、いくつか受け取り方を変えることができるみたいです。「残像ではないか?」とか、「残像ではないか!」とか、「残像ではないか…」とか。普通には疑問形で読み解くのだと思いますが、それをせずにあえてぼんやりとした残しかたができちゃうのも、俳句の醍醐味でしょうか。

さて、あぢさゐがすべて残像であることの意味も考えてみます。句ではあぢさゐ以外のものには触れていませんが、あぢさゐ以外はすべて実体なのですよね、たぶん。あぢさゐ「だけ」が「すべて」残像なのだと捉えたのだと思います。しかもまだ疑問をもっている。残像だと思うけど、確信が持てない。誰かに聞きたくても、他の人は気付いていないかもしれないし、本当は残像じゃなくてただの自分の妄執かもしれないし、逆にとっくに知っていることをなにを今さらかもしれない。いっそもしかしたら、あぢさゐ自体存在しないものかもしれなくて、自分の頭の中で創造したものでは…?…っと、また飛躍しすぎましたか(*_*;

「残像」だということは、かつてそこに存在していた(んじゃないかって)ことはわかっているわけですよね。でも、今はわからなくなってしまった。そこに時間経過が見てとれるんだけど、作中の人物も外から見ているボクらも、どれくらい前のことかはわからない。人によっては、今まさにそこに見えてるよ、と言うかもしれないし、そういわれれば…?と目を凝らす人も出てくるかもしれない。一句の中に、分岐とかパラレルビューがいくつも見えてきて、不思議な句だなぁ…っと思います。

こんな一見でハッとなる句を作りたいよなぁ。ほかには、「台風や薬缶に頭蓋ほどの闇」、「老鶯やみな寡黙なる男風呂」、「金魚玉語調はげしき手紙来る」、「ささやきのおほかたは息夜の秋」なども好きです。どれも、言葉と言葉の取り合わせが絶妙とおもいます。